Departure's borderline

フリーランス編集/ライターのいろいろな興味事

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10回目の3.11

 

今年もこの日が来て、ちゃんと、14時46分に目を閉じることができました。

去年は恵比寿の街中で、取材に向かう途中の道で。私以外、誰も足を止める人がいなかったことにさみしさを感じていました。
今年は、自宅で。ひとり、ゆっくりと。

 

 

 

あの日は随分と寒い、曇り空の日で。

制服のスカートは入学から卒業までずっと2回折りだった私の膝が、凍るように冷えていたのを覚えています。当日、中学の卒業式を迎えた私は、ブレザーの胸ポケットに花を挿したまま、日付が変わるまで母の迎えを学校で待っていました。

市外の私立中学に通っていたため、家まで歩いて帰ることは無謀。電車も動いておらず、母を待ったほうがよいと判断しての行動でした。

 

母が学校に迎えに来てくれてからも、停電で信号が機能していない帰り道は大変でした。いたるところに警察官が手信号のために立ち、ガソリンスタンドには長蛇の列。お手洗いを借りにいったコンビニでも、品物は何もない状態。世紀末のようだと思っていました。

 

通常1時間で帰れるところを、3時間ほどかけて帰宅した私と母。おそらく時間は午前2時くらいだったかと思います。

 

 

 

3月11日の翌日、12日は、母の誕生日です。

毎年誕生日は家族全員しっかりと祝う家庭で育ったのですが、この年の母の誕生日だけは、どうしても祝えなかった。おめでとうを言ってはいけない気がしてしまった。

 

とても後悔しました。母の誕生日は1年に1回しかこないのに、そしてその年の1回を逃してしまったら、その年はもう二度と来ることがないのに、私はその年の母の誕生日を祝えなかったんです。

 

 

その翌年から、母の誕生日には必ず、小さなミニブーケを買って帰るようになりました。駅前の花屋で売っているような、1つ500円のミニブーケ。

花が好きで、以前は自宅の庭のガーデニングに凝っていた母に、少しでも笑ってほしいと思って選んだ、私なりのプレゼントでした。

 

 

もう10年、そのプレゼントは続いています。

自宅を出て、東京で一人で暮らすようになっても、かならず母の誕生日には花を送りました。

大学時代、アルバイトを始めてからは少し大きな花束を。
社会人になってからは、花屋に就職した友人のツテを頼り、キレイなアレンジメントを。

 

 

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10年目の明日、群馬県の実家には、こんな素敵なアレンジが届きます。
これから先も、私は必ずお花を母に贈り続けるはずです。

 

3月11日、そしてその前後が誕生日の人に、心からお誕生日おめでとうを言える日にしたいです。

 

 

 

departuresborderline.hatenadiary.jp