私が敬愛する、伊藤計劃という作家は、たった2つの長篇を残し、34歳という若さでこの世を去りました。あまりにも若く、あまりにも惜しい。そう思える、ゼロ年代を圧倒するSF作家だったと思います。
彼がこちらを旅立って、早10年。次の3月で、もう11年になります。
彼の作品は多くの人に愛され、そして伊藤計劃という人物を敬愛する若手作家も多く出てきました。そうした作家のSF短編を集めた『伊藤計劃トリビュート』。一冊目は、伊藤計劃と同世代である中堅作家から若手を集めた超巨大アンソロジーとして、2015年に発売されました。
そして今回ご紹介したい、『伊藤計劃トリビュート2』は、小説新人賞「ハヤカワSFコンテスト」からデビューした20代の新人作家5人と、2017年の出版当時、弱冠18歳、天才と称されたアーティスト、ぼくのりりっくのぼうよみによる6つのアンソロジーです。
以下、多少のネタバレあります。
1.秀才、黒石迩守『くすんだ言語』
2016年、『ヒュレーの海』でデビューした彼の、デビュー後初作品。『ヒュレーの海』では、結構難しい単語を多用していた(混沌を”ケイオス”と表したりね)のですが、今回の『くすんだ言語』は、非常に簡潔かつ、よくまとめられているなという印象でした。
現代現実社会でも進む、IoT(モノのインターネット)が更に進み、IoH(ヒトのインターネット)が完成しようとしている世界。異なる言語の壁を取り払うために、「コミュニケーター」の開発に勤しむ主人公の物語。
「コミュニケーター」とは、脳に直接インターネットを接続することで、異なる言葉を使う話者同士でも普遍的な意思伝達を可能にしようと開発されているアプリケーションで、これが世界中で完成すれば、”世界は言語の壁に大きなひびを入れる”という。
ただし、「コミュニケーター」の利用によって『中間言語』という副作用が発生しているという。「習得していない言語を理解する」という不自然な脳の作用が、母語と外国語の間を埋めるために作り出す抽象化された言語のことで、現存するどの言語とも系統関係を持たない孤立した言語。
ある日、主人公の娘は自殺する。
この作品の素晴らしさは、言語という”今現在でも普通に普遍的にあるもの”が今後どうなるのかを、パズルのように描いているところです。
聖書に登場する「バベルの塔」の物語を終焉させるということに陶酔するかのように、研究に関わる主人公は、当初『中間言語』を軽視していました。「コミュニケーター」を完成させるためには必要不可欠な副作用だったからです。
娘の自殺をきっかけに、『中間言語』の副作用の恐ろしさを発見してしまう主人公。それがなにかはここでは語りませんが、最後の見開き1ページは、読んでいて鳥肌が立つ物語でした。
この作品で、やはり連想してしまうのは、伊藤計劃『虐殺器官』でしょう。『虐殺器官』も、言語に連想してこの世にパンデミックを起こす物語でした。非常にうまくインスピレーションを受けていて、ああ、いいなと。
黒石迩守のしっかりと筋の通った文章が15分程度で楽しめる、非常にいい作品だと思います。
2.天才、ぼくのりりっくのぼうよみ『guilty』
私が「天才」と惚れこんだ、ぼくのりりっくのぼうよみ。彼の曲ももちろん好きで、しょっちゅうアルバムをリピートしているのですが、この短編小説は素晴らしいの一言です。
同じ職場で働く彼女にプロポーズしたばかりのファー。彼は文明の崩壊がもたらした環境汚染から逃げるべく、高い城壁に囲われた「ズー」とよばれる集落で暮らしている。
そしてある日、愛する彼女が殺される。彼女の元に逝こうと、彼は汚染された城壁の外に出、そこでかつての文明社会の記録を手に取る。
この作品に対しての意見でよく見られる、『進撃の巨人』と『PSYCHO-PASS』の融合作品、という意見。
たしかに設定は非常に似ているのですが、彼の素晴らしさはその奥に広がる彼なりのディストピアにあると思います。
文明は発達するものであることはこれからも変わらないはずなのに、その崩壊をテーマにする大胆さ。崩壊が誰の手によって起こされたのか、そして同時進行で描かれる今も昔も変わらぬ愛の形の「変化」。
表記揺れや読みにくさなど、文章技術としての未熟さは感じますが、これは天才にしかかけない物語であると声を大にして言いたい作品です。
彼のもつ世界はやはり美しいな、と心から思える一遍でした。
3.まとめ
伊藤計劃という奇才を敬愛し、そしてインスピレーションを受けた作品を2つ紹介しました。
一つ、残念な点をあげるのだとすれば、全員の文章が、まだ拙いということ。小説として、日本語として完全体を成していた伊藤計劃の文章とどうしても比べてしまうアンソロジーであっただけに、「今後に期待」がつきまとってしまう短編は少し物足りなさも感じます。
ただ、すべての作品に共通する「伊藤計劃のDNAを引き継ぐだけの作品」であるという事実。今後のSF界は、安泰だなと思えるだけの作品は揃っています。
最後に、この本のまえがきとして言葉を寄せている、ハヤカワSFマガジン編集長 塩澤快浩氏のこの一文を持ってまとめとしましょう。
伊藤さんが生きていた頃より、世界はたしかに、少しだけ不寛容で、少しだけ生きにくい場所になりつつあるのかもしれません。
だからこそ、こうした若い世代の作家たちから自然に零れ出る、対話への欲求ともいうべきものに、すっかり旧世代となってしまった私などは、愛おしさと、そして微かな希望を感じてしまうのです。