「エンデュランス」という競技を知っていますか。
馬術競技の一種で、数十キロ、長いものでは150キロを超える距離を、馬と騎手が単独で走破する競技です。ただ走破すればよいだけではなく、区間ごとに獣医師が待機、馬の健康状態を診断し、その診断をクリアしないと次のステージに進めないため、騎手は常に馬の健康状態に気を配る必要があります。まさに、馬と騎手との絆が求められる競技なのです。
『天翔る』は、そんなエンデュランス競技に出合い、そして果敢に挑戦していく少女と、それを見守る大人たちの物語です。
初出は2013年3月、単行本。その後、2015年8月に文庫化され、私も文庫版発売と同時にこの作品を手に取りました。5年ぶりに再読したこの作品は、改めて美しく、力強い生命の力を感じます。
不登校になったまりもは、看護師の貴子から誘われた石狩湾の志渡銀二郎の牧場で、乗馬の楽しさを知った。そして人と馬が一体となりゴールを目指す耐久レース・エンデュランスと出合う。まりもを見守る大人たちも皆、痛みを抱え生きていた。世界最高峰デヴィス・カップ・ライドへのはるかなる道のりを描く。
文庫版裏表紙より
以下、多少のネタバレあります。
1.少女まりもが負った傷。看護師貴子が背負う傷。
主人公のまりもは北海道に住む小学5年生。物心つく頃には母親はおらず、とび職の父と祖父母と幸せに暮らしていました。
父親の仕事をきっかけに、まりもは小学校でいじめに遭います。教科書や体操着を隠され、クラスメイトは離れていき、担任の教師も見て見ぬふり。近日行われる授業参観に行こうとする父に「来ないで」と言い放った直後、父は勤務中の不慮の事故で帰らぬ人となります。
ぽっかりと心に穴が空いてしまったまりも。ついに、まりもは学校に行けなくなります。
もう一人の主人公である貴子は、東京出身で現在は北海道で働く看護師。道内の牧場で乗馬を習っており、夜勤明けの休みには必ず牧場を訪れていました。そして貴子もまた、心に傷を負った大人でもあったのです。
道端にうずくまるまりもに声をかけたことをきっかけに、まりもの家にちょくちょく顔を出すようになった貴子は、まりもを牧場に誘い出し、ちょっとだけでも、と馬に乗らせるのでした。
歩く、駆ける、止まる、左右に曲がる。まりもは馬に魅せられていきます。
2.エンデュランスと「出合う」
とある日、牧場にある男性が訪ねてくるところから、エンデュランスの話が始まります。その男性は東京で大手芸能事務所を営む漆原と名乗る人物。牧場の経営者である志渡にエンデュランス用の馬の調教を頼みたい、と。
エンデュランスは、先にも述べたように、1頭の馬と1人の騎手が数十キロ、長いものでは150キロ以上の長距離を駆け抜ける耐久レース。途中での獣医検査では、一定の時間内に心拍数が規定値まで下がるかどうかが大きなポイントになり、1つのレースを完走することさえ難しい。丈夫で、強い馬を調教し、育てていく必要があります。
そして、そのエンデュランス競技の最高峰である「デヴィス・カップ・ライド」。100マイル(160キロ)の距離を馬と駆け抜ける、その大会は、6年以上の乗馬歴を持ち、なおかつ本番以前に公式競技で50マイル(80キロ)を少なくとも6回完走しておかなくてはならないという、非常に厳しい規定があります。
難しい調教を志渡に頼む漆原は、もうひとつ、目をつけていたことがありました。それが、まりもをエンデュランス騎手としてイチから育て上げてみたいということ。
裏表紙のあらすじでは、エンデュランスとの引き合わせのことを「出会い」または「出逢い」ではなく、「出合い」と表記しています。
読み進めていくとわかるのですが、これは非常にこの作品に合った表現だと思いました。まりもがエンデュランスと「会い」、そしてピースが「合って」いく。まるでエンデュランスをするために生まれてきたかのような、神秘的なまりもの描写に、何度となく心を打たれました。
3.大人という弱い生き物
まりもを温かく見守る大人たちも、まりもと同じように、心に傷を負っています。
最愛の息子である、まりもの父を亡くしたまりもの祖父母。
幼いころ、母親が連れ込む男性に性的虐待を受けた貴子。
酒に溺れ、持っていたものをすべて失った牧場の志渡。
友人であり、最大のビジネスパートナーを失った漆原…。
弱点を突かれれば、すぐに壊れてしまうように繊細でどこか影のあった彼らは、その傷をエンデュランスとまりもという希望に乗せて、駆け抜けていきます。馬を通して彼らが得る心境の変化は、時に温かく、時に厳しく、時に残酷で、非常に見ごたえがある。涙で文字がかすんで読み進めることすらできないほどでした。
大人って、すごく弱いですよね。子どものときは世界なんて何も怖くなかった。大人になってから、自分を取り巻くいろいろなモノや感情に惑わされ、そして弱くなってしまう。弱くなったことにすら気づかず、弱くなったことを子どもを見て知る。
物語の終盤、まりもが誕生の瞬間から立ち合い、母馬から離された際には姉のようにかわいがった仔馬が突然死んでしまいます。最愛の父が亡くなるときも、必死に手を握り、祈り続けたまりも。最愛の馬にも死なれたときには、神様なんて大嫌いと口にします。自分より大きな、馬という生き物の儚い命を、再度かみしめ、その姿を見た大人たちもまた、辛さと絶望に向き合っていくのでした。
4.まとめ
この物語の最後に、まりもは自分でも忘れかけていた、大切な馬と奇跡の再会を果たします。明確に名前が語られているわけではありませんが、きっとそれはまりもにとって父の形見ともなるだろう馬。
そしてその馬で、再度エンデュランスに挑む彼女――。
5年ぶりにページを捲りましたが、これぞというべき名作です。村山由佳先生の作品としては、比較的長い長編(おいしいコーヒーの入れ方シリーズは別だけど)ですが、ついつい一気読みをしてしまうテンポ感と、次々と流れ込んでくる感動があります。
もっと読んでいたい。彼らの物語の、もっと先を読みたい。そう素直に思える作品です。