「3月11日、大変だったよね」
そんな会話は、今でも飲みの席やらで、頻繁に行われています。すでに思い出話の域になっていることを、直接的被災者ではない私達は恐れるべきであって、未だに被災の痕が強く遺る地域が多くあること、まして元いた地域に戻れないまま9年が経ってしまった人も多くいることを忘れてはならないなと、毎年この日に思います。
被災地と、東京の時間の流れは、あまりにも違いすぎる。
私は中学の卒業式中に、群馬県で地震に遭いました。ミッションスクールに通っていた私は、ガタガタと揺れる大きなパイプオルガンや、ぐにゃりとこんにゃくのようにねじ曲がるように見えた礼拝堂を目の当たりにし、「ああ、死ぬんだな」と思ったのを覚えています。
当日、両親は働いていて、卒業式には参加していませんでした。ほとんどの生徒が親に連れられて信号の止まった道路をおそるおそる帰る中、私は迎えが来るまで学校に留まることになります。
保育士をしていた母は、受け持ちの保育児童が全員帰宅するまで保育園を離れられず、私を迎えに来られたのは日付が回った頃でした。
群馬県は、最大震度6弱。電気、ガス、水道といったインフラは全てストップ。犬を飼っていたため、避難所と自宅を行き来しての生活が五日間ほど続きました。相次ぐ余震や緊急地震速報。ラジオでは大変なことがおこっていると分かっていたものの、津波の映像を電気が通ってからテレビで見た時、家族3人で言葉を失いました。生きているんだね、生きていられたんだね。あれほどまでに命の重みを感じた瞬間はないかもしれません。
情報が手に入らないことへの恐ろしさ、常に流れ続けるラジオの安否情報、事実だけを伝えようとする媒体、人の気持ちをくみ取ろうとする媒体。
報道、マスコミのあり方を、さらに考えさせられた出来事でもありました。
あれからもう9年。まだ9年。
直接的に被災をした東北や茨城、千葉、長野。あの時から時間が止ってしまった人。反して、進み続ける今の私を含めた直接的被災者ではない人々。思い出話としてではなく、もう一度思い出して、口にしていく必要がある。
14時46分。ここ東京で、足を止める人があまりにも少ないことに、改めてショックを受けながらも、今後もこの日は、せめてこの1分間だけは、2011年に帰らないといけない。
約1万6000人の死者、未だ見つからない約2500人の行方不明者が、9年前の今日、いなくなってしまったことを、追悼式という形がなくても、覚えておかなければならない。
9年が経ち、中学生だった私は社会人に。
3.11だけがきっかけではありませんが、私は報道、マスコミと呼ばれる場所で、編集者やライターという肩書きで働くようになりました。
「俺たちは、ペン1本で人を死よりもひどい地獄に落とすことができる。
けれど、ペン1本で人を救い、全世界に伝えることができるのも、俺たちだけ。」
そう4年前に教えてくれた、敬愛する編集者の言葉を、もう一度噛みしめ、報道する人間として、再度事象を大切にしながら生きていきたいと思います。